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2002年12月

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もうすぐ2002年が終わろうとしています。皆様にとって今年はどんな年でしたか?最後に何か書いておきたいなぁと思って、いつものごとく何も考えず、思いつくままに書いてみます。

今年は生活にレイキを取り入れたことで、自分自身の大きな変化があり、毎日驚きと気付きと感動の連続でした。とても素晴らしい1年でした。

スケジュール帳を見ると、大晦日までヒーリングとレイキ講習の予約が入っています。ありがたいなぁと思うと同時に、自分が想像していたよりも多くの人が、色んな悩みや苦しみを抱えているんだなぁということを痛感しています。私で良ければ・・・、少しでもお役に立てれば・・・、そんな気持ちで一杯になります。

人の幸せって何でしょう。色々考えましたが、私は自然でいられる時に、ありのままの自分でいられる時に、とても幸せを感じます。そして自然でいればいるほど、物事がスムーズに進み、欲しいものが苦労なく手に入るのを実感しています。必要な人・物・情報などがタイミング良くやってきて、自分の思い通りになってしまうのです。「なんてラッキーなの?」と思うことも、しばしばです。

自然でいればいるほど、全てが上手くいくようです。こういうのを自然の流れに乗るとか、宇宙の流れに乗ると言いますが、私は音楽をやっているせいか、この感覚を「宇宙ビートに乗っている」と表現しています。

演奏する時や踊る時の話ですが、ビートに乗るのに始めは苦労しました。リズムに合わせようと意識すると、かえってぎこちなくなってしまうのです。ウォークマンで曲を聴きながらテンポに合わせて歩いてみたり、縄跳びをしたり、手足を使って裏拍をとってみたり、思いつく限りのリズム感を養うトレーニングをしてみました。リズムを体で感じて、体に覚えこませました。

それに慣れてくると、リズムに合わせようという意識がなくなってきました。合っているのが当たり前というか、ギターで言うならば指先と頭を使ってリズムを合わせようとしていたのが、そういう細かいところは置いておいて、リズムを感じて、体が自然に合わせてしまうのです。

宇宙ビートも、これに近いようです。頭で考えたり、流れに合わせようと意識していると、なかなか乗れないみたいです。まして自然や宇宙は「テンポ=120」とか決まっていればいいのですが、リズムが一定ではありません。私たちに同じ一瞬がないように、自然も宇宙も、刻々と変化しています。これを頭で考えて合わせようとしていたら、とても無理な話だと思います。

だから、感じちゃった方がいいみたいです。自然を感じて、宇宙を感じて・・・。自分も、海や山や植物と同じ自然の一部であるのを感じて・・・。

クリスマスの夜から、ちょっと自分がいつもと違う感じがしました。それは今までに味わったことのない感覚で、説明するのが難しいのですが、キレイサッパリ何もないんです。どう対処してよいか分からず、何だろコレ・・・って思ってました。

その翌日の朝、東京は雲ひとつない青空でした。それを見て、あぁ昨日からの感覚はコレだって気付きました。何もないのが、ただ青いのが、とても素適だったのです。私もあの青空のように「何もなく、ただ私で」自然の一部でありたいと思いました。

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私がヒーリングをやろうと思い立ってから、その相談に乗ってくれたり応援したりしてくれている友人が2人いる。その2人には感謝の気持ちとお礼も兼ねて、毎日遠隔ヒーリングをしているのだが・・・、うーん、何て言ったらいいんだろう。2人共、全てが良くなっていっているとしか思えないんだよね。

特にヒーリングの話をしている訳ではなく、2人とも日常会話で「こんなことがあって・・・」みたいな話なんだけど、話を聞いてると、何か色んな事がどんどん良くなっていってるねぇといった感じなのだ。しかも2人とも「今後はさらに良くなっていく」という自信というか、確信みたいなのを持っているんだよね。

実は、私も同じなのだ。色んな事が良くなっているし、更に良くなっていくという自信があるし、叶わない事はないんじゃないか?ってくらい、毎日毎日思った通り以上にコトが進むし、欲しいと思ったものの殆どは手にしている。今までは「なんて私ってラッキーなの?」だったけど、今はだいぶ、その仕組みが分かってきて「なんだ、ラッキーハッピーってこんなに簡単なことだったんだ」というのに気付いてきている。

たまたま私を含めた3人のバイオリズムが同じなだけかもしれないけれど、レイキヒーリングを継続してきた恩恵というのも大きいと思う。継続は力なり、かな。

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最近、便利だなーって思うのは、この人と連絡とりたいなーとか、あの人どうしているのかなーって思うと、すかさずその人から連絡が来ることだ。

あと前にも書いたけど、こんなの欲しいなーってのも、すぐ手に入る。この間は、オレンジのシステム手帳が欲しいなーって思って、ネットで探したら「もう一目惚れ」ってのを見つけて、すかさず注文した。

すかさず注文して良かった。それは最後の1個で、ハンドメイド品なんだけど、もう作らないんだって。他では見ないデザインなので、最後の1個だと思うと、余計に嬉しい。

フラッシュ(ホームページの技術の一つ)勉強したいなーって思ったら、ソフトもらえた。

耳につけるメトロノーム欲しいなぁと思って楽器屋行ったら、入荷したてでたくさんあって色も選べた。コレ、人気があって、いつも売り切れ状態らしいんだよね。

先日、鴨川に遊びに行った時も、そう言えばタイミング良かったなぁ。1時間に1本しか出ていないバスに3回乗ったんだけど、3回ともバス待ち時間が10分以内だった。時刻表を調べたわけじゃないのに、妙にスムーズだった。

タイミングがいいのは、能率もアップするし、気持ちいい。レイキの円滑現象って、やっぱ凄いや。

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怪我のヒーリングをしていて、私から見れば1日で治るものなのだが、受けている人が「いやー、1週間はかかりますよー」っていうと、その人の望み通り、1日で治るものが1週間かけて治ったりする。

ま、それはそれで、その人が治したいペースで治してくれればいいのだが、自分が「治るわけない」って思っていると治らないんだから、逆に「治る」って思っていれば、治るんじゃないか・・・?

ふと思ったのだ。何を思ったかというと、ひょっとして、本当にひょっとしてだけど、私は嗅覚を取り戻せるのではないだろうか?

以前も書いたが、私は19歳の時に交通事故に遭って、それで嗅覚を失った。医者は「匂いを感じる神経が切れているから治らない」と言った。それを私は、ずっと信じてきた。昔は嗅覚の記憶があって、カレーの匂いとか、ラーメンの匂いとか言われて「あぁ・・・」って思い出せたけど、今は記憶すらない。匂いって何?私はまったく感じる事ができない。

自分ひとりで生きている分には、匂いがないのは、実は快適だったりする。ガス漏れとか火事は、匂いが分からないと怖いけど、嫌な匂いを嗅がなくて済むのは快適なのだ。

けど困った事がある。みんな、私が匂いを嗅げている、と思っている。「これ、いい匂いだから嗅いでご覧」とか「何か変な匂いしない?」と言われて、困ってしまう事が度々ある。

事情を説明するのが面倒くさいのと、変に同情されるのも嫌なので、匂いを嗅げる振りをしてきた。たいてい「そうだね」って答えれば、それで済んでしまう。それは、それでいいと思う。

親しい人には、あらかじめ嗅覚がないのを告げている。けれど、みんな、忘れちゃうんだよね。「変わった匂いだよね〜コレ」といわれても、うーん、私には分からない。返答に困っている私の姿で思い出し、「あ、そうだった。ゴメン・・・」何度こんな会話をしたか数え切れない。

相手が申し訳なさそうにしているのが、私には辛い。匂いが嗅げないことは或る意味快適だし、私が匂いを嗅げない事なんて、別に忘れてしまっても構わない。ただ、それで申し訳なさそうにされるのが、とても辛いのだ。

レイキで嗅覚が取り戻せるんじゃないか・・・。ふと思った。今まで治らないと思っていたから、治らないんじゃないのか?

自分の心の中は、まだ半信半疑というか、神経が切れているのに治るわけないじゃないかという気持ちもあるけれど、ひょっとしたら嗅覚を取り戻せるかもしれない。今日から、チャレンジしてみようと思う。

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昨日、自殺のことを書いた。

一昨日の夕方、別件で音楽とお金のことを書いたから、次はヒーリングのことを書こうかなぁと思いつつ、何を書いていいのか思いつかなかったので、脳休めしようと占いをして遊んでいた。

そして一昨日の夜、友達から携帯にメールがきた。「中学時代の同級生が自殺した」って。

その知らせを聞いて、色々考えた。メールをくれた友達の気持ちも考えたし、自殺した人の気持ちも考えたし、痛たまれない気持ちになった。

そして、何か日記に書こうと思って、ネタが見つからず、ウダウダしていたのは、コレを書けってことかなって思った。

自殺と聞いて私が一番に思い出すのは、Hちゃんだ。彼女のことを書いていいのか?私は悩んだ。なので風呂に入ってレイキ瞑想をし、書いていいのか?と聞いてみた。書いていいよって言われている気がした。

やっぱり亡くなった人のことなので躊躇してしまうのだが、書き始めたら、メールくれた友達から「今、同級生の告別式に向かっているところ」とメールがきた。これは書けってことだなと思い、作業を進めていった。

自殺したHちゃんが私のところに「ななちゃん、私を何とかして〜」と救いを求めてきていることに気付いたのは、去年の秋頃、ある霊能者の方に見てもらってからだ。

当時は霊障がひどかった。全部が全部、Hちゃんがやったとは思わないけれど、金縛りや、消した電気が一瞬ピカピカっと点いたり、パソコンの電源が勝手に入ったり、ステレオのボリュームが勝手に上がったり下がったり、怪現象が続いていたので霊能者の方に見てもらって、住んでいた部屋に霊もいるけれど、消した電気がピカピカっと点いたのは、自殺した友達が存在に気付いて欲しくてやったのだろうということだった。だから、Hちゃんだろうと思った。

霊能者の方からは、頂いた言葉をそのまま貼り付けてしまうけれど『自殺の方がご供養を求められてきても「何もできない」と言い放ってくださいね。少し身の危険を感じても無視して下さい。「助けてあげられない」と言っちゃってくださいね。無理なものは無理ですからね。』と言われた。

霊障のヒドイ部屋を引っ越したら、金縛りとかはだいぶなくなったけど、Hちゃんの存在はたまに感じていた。

はじめ私は怖かったので、非常に冷たく彼女を突き放していた。けれど、いつ頃からかなぁ。ヒーリングをやるようになってからなのかな。Hちゃんは、死んでもHちゃんなんだよなぁと思い、「ここに来ても私には何もできないよ。ゴメンネ」に、「本当に苦しみから逃れたいと思ったら、人に頼らなくても、自分の力でできる筈だよ」がプラスされていった。

生きていても、死んでいても、苦しみから解放されて幸せになりたいと願う気持ちは同じだと思う。霊は生き続けるというから、きっと同じ事なのだろう。けれど住む次元が違うから、生きている人はヒーリングで、死んでいる人は御供養になるのかな。

死後の世界はよく分からないけれど、Hちゃんは死んで楽になった訳ではないらしい。だから生前と同じように、私のところに救いを求めてくるのだろう。けれど生前と同じで、私は彼女の苦しみを取り去ってあげる事ができない。彼女が自分の力で何とかしようと思わない限り、何をしてあげても、それは助けにはならないのだ。

だから「自分の力でできる筈だよ」って言い続けた。

書くのに、8時間くらいかかった。書いている間中、どうしてこんなに、自分の頭の中が何を書こうか真っ白状態なのに、文章が出てくるのか分からなかった。そして書き終わりが近づいたあたりで、私は涙が止まらなくなった。なんで泣いているのか、自分でも分からない。ただただ、「ななちゃん、ありがとう」っていうHちゃんの気持ちが伝わってきて、それで泣けてくるのだ。

彼女は私に、死んでも苦しいよって、自殺しても苦しいよって、教えてくれたのだ。多分私は、今後は自分で自殺しようって考える事はないと思う。教えてくれて、ありがとう。

生きている時に彼女にヒーリングをしてあげられたら・・・って思う。私がそんな風に思っても、彼女はヒーリングを受けてはくれなかったかもしれないけど、生きている時に、こんな、ありがとうって言い合えるような交流ができていればなぁって思う。

そう思った途端に、サーっと気配が消えて、涙も止まってしまったのだ。そしてこの爽快感は、一体何なんだろう。

Hちゃんが、死んで楽になったとは、私は思えない。けれど、死んで、そこでも苦しんで、苦しんで、そして自分の力でその苦しみから少しでも抜け出したんじゃないかと私は信じたい。というか、多分、少しでも楽になれたのであろう。じゃなかったら、私に「ありがとう」なんて、言ってこない筈だ。うん、きっとそうだ。

今回の話は、私が書いたというよりは、私というフィルターを通して、Hちゃんが皆さんに伝えたかったことのように感じる。苦しい事から逃れようとして死んでも、自殺してしまった後悔の念も加わり、さらに苦しいようです。この文章が、少しでも自殺しようとする心にブレーキをかけられればいいな。

書き終わって、ふ〜今日は1日コレで終わったーと何気なくポケットに手を突っ込んだら、何か紙が入っていました。

私は普段からポケットに物を入れる習慣がないので「何だろ?」と思って出してみたら、1万円札でした。

目が点になりました。「へ・・・?」って、固まってしまいました。ポケットに物を入れる習慣もなく、お金は必ずお財布に入れて、きちんと家計簿もつけてお金を管理している私です。1万円札をポケットに入れるなんて、恐れ多くて小心者の私にはできません。この1万円札は、まったく記憶がありません。

あまり深く考えるのはやめて、きっとこれはいいエッセイを書いたご褒美だろうと思い「ラッキー♪」で済ますことにしました。

そして、ポストに郵便物を取りに行きました。母親からクリスマスプレゼントとして、商品券が1万円分届いていました。これも「ラッキ〜♪」です。2万円も、予期せぬご褒美を貰ってしまいました。

けど、不思議・・・。

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昨日、友人の中学時代の同級生が自殺しました。今日、告別式だそうです。

「そんな事するような人じゃなかったのに・・・」と友人は言っていました。亡くなられた方と私は面識がないのですが、私にも、自ら命を絶ってしまった友達が2人います。突発的な衝動のようでした。普段はそんな事するような人でなくても、衝動に突き動かされると、周囲の人が想像できないような行動を、人はしてしまうものなのでしょうか。

皆さんは自殺しようと思った事がありますか?私はあります。何度もあります。実際に自分を傷つけるような行為にまでは至りませんでしたが、「死ねば楽になれる」と思って、楽になりたいが為に自殺を考えることがありました。そして「死んでも今と一緒なんだ」というのが分かった時に、自殺を考える事はなくなりました。

それを教えてくれたのは、自殺した友達の1人、Hちゃんです。この話はちょっとヒーリングという観点からは反れる部分もあり、ここで書いていいのかどうか躊躇したのですが、Hちゃんが書いて欲しそうなので書いてみます。

まず、Hちゃんと私の関係からお話します。今から7年前に、友達に誘われて、Hちゃんが私のライブを見にきてくれたのが出会いです。そして、私のギターや曲に惚れてしまった女の子です。なんて自分で言うのも何ですが、出会ってすぐにHちゃんは、私が住むアパートの部屋の、隣の隣の部屋に引っ越してきてしまったくらいですから、私は相当惚れこまれていたのだと思います。

Hちゃんは歌をつくって歌う人でした。独特の感性を持っていて、それがきちんとした形で表現できれば、とても素晴らしい演奏ができたのではないかと思います。けれど年が若かったせいか、自分の中から湧いてくるエネルギーを上手くコントロールできなかったようで、そのため周囲の人から理解されにくいというか、誤解を受けるような行動をとってしまうことが多かったのです。今から振り返ってみると、私の10代の頃にそっくりだなぁとも思います。

彼女から頼まれて、私は彼女のバックでギターを弾き始めたのですが、これは辛いものでした。彼女の歌や言動から感じるものは「誰か私を何とかしてくれ〜」なのです。よほど自分の内から沸いてくるエネルギーを、持て余していたのでしょう。これを明確な形にして、人に伝えられるような表現に変えていければ、方向性が出来て、溢れんばかりのエネルギーを上手く循環させていけたと思います。

Hちゃんが自分自身を持て余しているのも、それで苦しんでいるのも、私は知っていました。「ななちゃん(私)、私を何とかして〜」と要求されているのも知っていました。けれど、それをやるのは他の誰でもない、Hちゃん自身なのです。Hちゃんの心の中から湧いてくるものを、私が操作することはできません。私は何もしてあげられないんだけどなぁと思いつつ、そのことについて2人で話したりもしました。

彼女は、自分から「ギターを弾いて」とお願いしてきたのに、その練習に平気で1時間も遅れてきたりしていました。理由は、家でグズグズしていたから、です。または、練習に行きたくなくなって逆方向の電車に乗ってしまったから、です。

歌を歌う事は、彼女が最もやりたい事ではなかったのでしょうか。何故、その練習に行きたくなくなってしまうのでしょうか。一番好きな事をやるのに、何故それから逃げてしまうのでしょう。

私が彼女にしてあげられることといえば、そういったお話をすることでした。自分の中の矛盾とか、自分の心を、ちゃんと見つめて、空回りして持て余しているエネルギーに方向性をつけていけるようお話しました。けどやっぱり自分の心を見るのが怖かったみたいで、彼女はそれから逃げ続けていました。

何度かお話しを重ねましたが、毎回毎回練習に遅れてきたり、持て余しているエネルギーをぶつけてきたり、こんな調子じゃ一緒に音楽は出来ないと私は判断し、彼女のバックでギターを弾くことを止め、その後はアパートも引っ越して、彼女とは付き合いが全くなくなりました。

それから何年後だったかなぁ。2、3年後だったと思いますが、Hちゃんを私のライブに誘ってくれた方から電話がありました。「Hちゃんが自殺した・・・」って。

それを聞いて「遂にやったか」と思いました。逃げ続けてしまうHちゃんだったら、いずれやりかねないだろうと、心のどこかで私は思っていたみたいです。

連絡をくれた方は、泣きながらこうも言っていました。「人は自殺すると、自殺するまえ以上に苦しみ続けるというけれど、私はそんなの信じない。あの安らかな死に顔を見たら、Hちゃん、やっと楽になったんだね。良かったねって思っちゃう。Hちゃんは楽になれたんだって、そう信じたい」って。

冷たいようですけど私は、それはないだろうなぁと思いながら、話を聞いていました。

Hちゃんが自殺してしまった事は、悲しいし痛まれないことですけれど、私はとてもクールにそれを受け止めていました。本当に冷たいようですけど、涙は一滴も出ませんでした。

ギターを弾いてあげていた時に、もっと優しくしてあげれば良かったのか?とか、同じアパートに住んでいた時に、もっと仲良く遊んであげれば良かったのか?と、チラッと思いましたが、それをしていたところで、Hちゃん自身が自分の力で自分を何とかしようと思わない限り、周囲の人は何もしてあげられないのです。

逆を言えば、何もしない・・・、これは究極の優しさではないかと私は思っています。何もかもしてあげてしまっていたら、人の心や魂は育ちません。色んな方の生き様を見て、そこから何かを感じ学ばせていただく事で、人は成長していけるのだと思います。

さて、自殺してしまったHちゃんは、その後どうなったのでしょうか?

去年あたりから、私は彼女を感じます。私は霊能者ではないので、亡くなった方を見たり聞いたりする事はできませんが、ヒーリングをしている時と同じような感覚で、何となくですが、感じる事はできるみたいです。

私がHちゃんの存在とともに、何を感じたのか教えてあげましょう。「ななちゃん、私を何とかして〜」です。Hちゃんは、生前と同じ事を言っています。

なので私も生前と同じように「頼ってくれるのは嬉しいけれど、私は何もしてあげられないよ。本当に何とかしたいと思ったら、自分の力で何とかできる筈だから、そこから逃げないで、自分と向き合って、自分の力で抜け出してごらん」って言い続けました。

このようなやり取りが続いて、死後の世界とは生きる場所が変わるだけで、今と何も変わらないんじゃないかと思うようになってきました。

私は今、東京の新宿区というところに住んでいます。死後の世界とは、例えばですが、お隣の渋谷区に引っ越した、という感覚に近いんじゃないかなぁと思っています。

引っ越して住む場所が変わると、気分がリフレッシュしたり環境が変わったりしてプラスに働く事もあるかと思いますが、基本的には自分が変わらない限り、どこで暮らしても同じような生活をすると思います。

死後の世界がどんなものか想像がつかないから、死んだら楽になるんじゃないかと、幻想を抱けるだけなのではないでしょうか。そこが隣町だったらどうでしょう。隣町に引越しただけで、生きているのが辛くなるような苦しみから解放されるのでしょうか?

私はNOだと思います。どこで暮らしていても、自分がその苦しみを本気で何とかしようと思わない限り、その苦しみから逃れられることはないと思います。苦しみの原因を解決するまで、苦しみは自分につきまとうでしょう。

死後の世界の考え方は人それぞれだと思いますが、この文章をお読みいただいている方の中に、もし自殺を考えられている方がいらっしゃいましたら、本当に死んでしまう前に、どうか自分の心の中を見つめて頂きたいと願います。

世の中には見たくないものがたくさんあります。私も、自分のお財布の中身とか、脂肪のついたお腹とか、あんまり見たくありません。苦しみや自分の心の中なんて、なおさら見たくありませんけれど、それと真剣に向き合って原因を探っていくと、だいたいの場合が、自分で自分を苦しめていたことに気付かれると思います。

自分を苦しめている自分を見つけましたら、それを心の中で殺してみて下さい。言い方は乱暴ですが、私もたくさんの自分を殺してきました。

このエッセイの中だけでも、「vol.1 足首の捻挫が治りきらず腰痛を抱え続けた自分」が、「vol.2 父を嫌いで憎んですらいる自分」が、「vol.3 レイキで機械が直せるわけがないと思っていた自分」が、「vol.4 なーんか関係が上手くいってないけどMさんと付き合わなくてはいけないと思い込んでいた自分」が、「vol.5 自分を愛せない自分」が、「vol.6 遠隔ヒーリングなんて本当にできるのかなぁ?と思っていた自分」が、そして今回は「自殺したら楽になれると思っていた自分」が死んでいます。

死ぬという表現はちょっと乱暴すぎるので、手放したと言った方がいいかな。何はともあれ自分の中から、そんな自分がいなくなっています。これも或る意味、自殺でしょうか?けれどいなくなった分だけ、身も心も軽くなり、苦しいと感じていたことから解放されています。

真剣に向き合えば、自分の力で解決していくことが出来るのです。というか、自分の力でしか解決することは出来ないのではないでしょうか。これはヒーリングをやらせて頂いても、同じように感じています。私はお客様の背中を押してあげたり、励ましたり、サポートをしてあげたりすることは出来ますが、問題を解決したり取り除いてあげることは出来ません。問題を解決されるのは、いつも、お客様ご自身の力なのです。

なのでぜひぜひ、何か苦しいこととか問題がありましたら、それから逃げずに、解決の糸口を探っていってみて下さい。どうか恐れずに、それと向き合ってみて下さい。もしも誰かの助けが必要だと感じたら、アホな私のことでも思い出してみてください。お願いですから、自殺するのは心の中だけにして下さい。生きているのが苦しいと感じるのなら、死んでも、きっと苦しいのです・・・。

自殺された方々のことを想うと、痛まれない気持ちで一杯になってしまいます。私は今、Hちゃんを感じています。彼女からは「ありがとう、ななちゃん」って気持ちが伝わってきて、私は涙が溢れて止まりません。彼女が亡くなった時は涙なんて出なかったのに、隣町の死後の世界で、彼女は自分の力で、苦しみから少しでも抜け出すことができたのでしょうか。

今回のこの文章は、私が書いたのではなく、彼女に書かされてしまったような気がしてなりません。私からも、Hちゃんにお礼を言いたいと思います。ありがとう、Hちゃん。生きているうちに、こんな話をしたかったね・・・。と思ったら、スーッと気配が消えてしまいました。私も何だか、妙にスッキリとしてしまいました。

これは、彼女も私も、次のステップに進めたということなのでしょうか。亡くなられた方々が自分の力で安らかに眠れるようにとお祈りしつつ、この世に生きておられる方々も、自分の力で苦しみのない安らいだ生活が送れるように、ヒーリング頑張ろ〜!と決意を新たにした私でした。

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温泉に行って、露天風呂に入る。広い湯船にたった一人で大の字になって、体の緊張がどんどんほぐれていくのを感じる。

露天風呂といっても女性用なので目隠しの壁があり、景色らしい景色はないが、それでも青空と、ちょっとした植物が見える。自然の中で裸で大の字になって、自然との一体感を感じる。

心からも体からも、今の私にとって必要のないものが、出ていっているように感じる。

私はお風呂に入っている時、レイキ瞑想をしている。そんなやり方でいいのか分からないけれど、リラックスするので丁度いいのだ。

なので露天風呂に入りながら、レイキ瞑想をする。第4のマントラを心の中で唱え続ける。体中の力が抜けていく。それがとても、自然だと感じる。体中の力を抜いて、心の緊張も解きほぐして、頭は何も考えてない状態でグニャグニャになっているのを、とても自然だと感じる。

人の幸せとは、自然でいることなのだと感じる。自然でいられないから、悩んだり苦しんだり病気になったりするのだろう。

私たちは、海や山や植物と同じなのだ。自然の一部なのだ。なのにどうして、不自然に生きてしまうのであろう。どうして、自然にありままの自分でいる事が、こんなに難しくなってしまうのだろう。

重たい荷物は降ろせばいい。不必要なものは手放せばいい。なのに人は、何でも抱え込みがちだ。手放したくないという想いもあるだろうし、手放しちゃいけないという思い込みもあるのだろうが、抱え込んで、抱え込んで、息が詰まるような想いをしている人も多いと思う。

私はこの辺のことを、光合成と同じように感じている。呼吸をすると、酸素を吸って、二酸化炭素を吐き出す。これだけ考えると、いずれは世の中が二酸化炭素だらけになって酸素がなくなっちゃうんじゃないの?と思うけれど、酸素を作り出す光合成では、二酸化炭素が必要なのだ。二酸化炭素がないと、酸素はできないらしい。私は勉強は苦手なので、あまり詳しくは知らないんだけれど、こうして循環させていくことで常にフレッシュな酸素が吸えるのであろう。

このような感じで、例えば悪感情(怒り・妬み・・・)なども、もともとは愛だったというか、愛があるから発生した感情だと思う。それで心が一杯になってしまう時もあるだろうけれど、もう必要がなければ、それを手放して循環させていくことで、悪感情もいずれは愛に戻していけるのだろう。そして手放して心にできたスペースに、新鮮な愛を入れていく。

レイキを取り入れてから、この循環作用みたいなのを良く感じる。レイキをすると、ちょっとずつ新鮮な愛が入ってきて、それがもっと入りたがって、自分にとって不必要なものがありますよ〜、もう手放して愛を入れるスペース作ってくださいよ〜みたいな気付きがくる。意識して気付いて手放せる時もあるし、無意識で、例えば熱を出して倒れたりして手放す時もある。

手放すと新鮮な愛が思う存分入ってくる。すると「私ってなんてラッキーなの」と思う円滑現象や、大きな気付きや感動が度々起こる。愛は愛を生み、それには喜びがオマケでついてくる。ラッキーというのは、自然の流れに乗っていることだと感じる。逆を言えば、自分がいつも新鮮な愛の姿でいる事が、自然だと言うことなのであろう。

海や山や植物や動物のように、私も自然の一部でありたいと思う。

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毎日が楽しくてしょうがない。自分が「やりたいな」と思ったことが、着々と現実になっていく。「欲しいな」と思ったものが少しずつ手に入る。達成感が常にあって、いつもワクワクしているような感じ。うーん、人生は素晴らしい。

先日、風邪で倒れた前後は手ごたえのなさというか、調子の悪さを感じていたけど、レイキを取り入れてからのバイオリズムを分析してみると、大きく変化する時には、なんかボヤボヤしたピントが合っていないような感触になるみたい。それを抜けると、何事もトントン拍子のイキイキとした毎日がやってくる。今のところは、このパターンを繰り返しているようだ。

生まれてきて良かったなぁと思う。今までの、ウダウダ考えたり悩んだりしているうちに、ただ時間だけが過ぎているような日々は何だったのか。振り返ってみると、そんな生き方をしてきて時間がもったいなかったな、と思う。いや、その時はそれで精一杯だったんだけど、もっと早く自然の摂理に気が付いて、宇宙ビートにのっかっれば良かった。b

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最近、弟がどこで覚えてきたのか「アイラブミー!」と騒いでいます。好きな子に告白して振られても「振られた自分が大好きさ!」とか「彼女がいなくても俺は俺が大好きだからいいんだ」と言って、ハタで見てるとかなり笑えるのですが、なかなかラブの真髄をついていると思います。

自分が光り輝く愛そのものであることを思い出すきっかけなども、この「アイラブミー!」にあるかと思います。

人は、どうしても外に何かを求めてしまいます。私はずっと、外に愛を求めていました。多分はじめは両親からの愛を求め、大人になっていくにつれ対象は恋人からの愛に変ったと思いますが、常に求め続けていました。

誤解のないように書き添えておきますが、両親も恋人も、しっかり私のことを愛してくれていたと思います。けれど、どんなに愛されても、何故か私は心が満たされないのです。普段はそんな事あまり意識していないのですが、ふと立ち止まった時とかに、何か違うような、愛に餓えているような飢餓感や空虚感がありました。

と言っても、こういうのって、何をどうして良いのか分からないんですよね。「愛なんて、こんなもん」と自分に言い聞かせてみたり、「いや、こうじゃない筈だ」と思ってみたり。満たされる愛を求めて彷徨い続けるトラベラーだったように思えます。

私の場合は、この愛の餓えによる歪みが、喘息という形でよく現れていました。始めに発作が出たのは14歳の時だったかな。風邪から喘息へと発展したように記憶していますが、この時は40度の熱が1ヶ月近く下がらず大変でした。

喘息の発作は咳が止まらないのもあるのですが、呼吸困難のように息が吸えなくなるのもあって、これは本当に苦しいです。なんで突然喘息になったんだろうと考えました。

当時は猫を飼っていたので、猫の毛がいけないのかな?とか、畳の上にカーペットを敷いているのがいけないのかな?とか。けれど喘息になってすぐ、私は療養の為に家を出て祖父の家で暮らす事になったので、この原因らしきものは全て取り除かれました。けれど治りませんでした。

今だから分かる喘息になった原因は、多分3つです。

・自分の好きなように生きたい
・誰にも邪魔されない静かなところにいたい
・愛されたい

え?これが原因なの?と思われるかもしれません。一般的に考えられる喘息の原因もあったのでしょうが、この当時の切実な望みを叶えるには、喘息になってしまうのが一番てっとりばやかったみたいです。

だって喘息になれば、怒られる事なく学校を休めて好きな事ができたし(学校に興味がなく家でギターばかり弾いていたので怒られ続けていた登校拒否児でした)、静かなところでゆっくりできたし(上記の理由で家族がうるさかったので早く家を出たかった)、心配してもらえるし(=愛されている実感)、喘息になった事で、一気に望みが叶ってしまったのです。

その後も喘息は、私の望みを叶える為に、何度も何度も現れました。と言っても、まさか自分の気持ちと喘息の発作が繋がっているとは思ってもいませんでしたから、これは持病だから仕方ないと諦め受け入れてました。喘息の発作を一発で鎮めてしまう、強力な吸入するタイプの薬があるのですが、いつもそれを持ち歩いていました。発作を出しては薬で抑え、「そんなこと繰り返してたら心臓止まるよ」なんて、よく心配されたものでした。

10年以上も苦しめられた喘息ですが、去年あたりから発作が出なくなり「あれ?そういえば喘息治ったのかな?」なんて考えているうちに、そういえば愛に餓えているような満たされない感じも、なくなってきていることに気付きました。それで、これと喘息の関連性に気付き、私は自分からも人からも愛されたくて喘息になっていたという事が分かりました。

そして今年の夏に、ダメ押しがやってきました。地の底から湧いてくるような、拭い去れない不安に襲われる日が続いたのです。不安を感じる要素は幾つかあったのですが、それ以外にも、もう何もかも全てに対して不安になってしまって、いてもたってもいられないのです。

これは不安神経症というのでしょうか?突然意味のない不安を感じて、そうすると落ち着かなくなってソワソワし、動悸がしたり、手が震えたりもします。何の根拠もないのに人を疑ったりもします。私一体どうしちゃったの?と思いつつ、やり過ごしていたのですが、遂に喘息の発作が登場しました。寝ていたところを突然「息が吸えない!」と発作に叩き起こされ、その後は呼吸困難で苦しく横になることもできません。こんなハードなの久しぶりだなぁと思いつつ、この時ようやく気付きました。「私、今、自分を愛していないんだ」って・・・。

例の薬を使って発作を抑えてしまえば、すぐに体は楽になりますが、それでは何の解決にもなりません。私の喘息の原因は、薬が効かない心にあります。だから今回はヒーリングで根本から改善してみようと思い、自分にヒーリングをしました。

ゆっくりと心を紐解くうちに、ここ数日の不安は全て、自分を愛していないことから発生していることに気付きました。不安材料のひとつに、今月は家賃が払えないかもしれないというのがあったのですが、冷静に考えたら、お金が足りないのなら収入を増やすか、貯金をちょっと崩して家賃に充当すればいいだけの話でした。金額的には1万とか、ちょっと足りなかっただけなのです。だけど自分を愛していなかったので、お金を稼げる自分が信じられなかったり、自分の築いた貯金が崩壊するように感じて、無性に不安になっていたみたいです。

また喘息については、自分からも人からも愛されたくて発作を起こしていると思っていたのですが、これ、ちょっと違ったんですね。正確には、自分から愛されたくて、発作を引き起こしていたようです。何でそれが分かったのかというと、愛に襲われたのです。

襲われるという表現はオカシイかもしれませんが、自分が愛そのものであることを感じ、同時にその喜びを感じました。全身がゾクゾクするとか、電流が走るとか、そういった感じでした。そして内から溢れんばかりの愛を感じました。感じれば感じるほど幾らでも出てくるような、エネルギーとも言えるし気力とも言えるし、何の恐れも不安もない、穏やかだけど満ち足りた幸福感が私の中からみなぎって、私を突き抜けて、無限に永遠に広がっていくような感覚です。

何ということでしょう。私が今まで外に求めていたものは、コレでした。私の中にあったのです。いくら外に求めても、これでは満たされない筈です。自分が満足できるように自分を愛してくれる人は、自分しかいないのです。頭では分かっていたのですが、このヒーリング中に全身を通して深いところにまで、ガツーンと感じました。

その後、大勢の人の前で自分がライブをやっているイメージがやってきました。音楽は私が一番好きなことです。これを通して、私は多くの人に自分の愛を伝えていました。そして、それを受け取った人たちも、演奏を聞いてくれたり応援してくれることで、その人たちの愛を私に伝えてくれました。すべてイメージですが、そこではとても素晴らしい愛の交流がなされていました。「なんだ、私は自分からも、こんなに大勢の人からも、愛されているじゃないか」と思いました。

イメージは、しばらく続きました。私が我を忘れて、好きなことをやればやるほど、自分の愛が輝き、溢れ出ていくのです。そして、より多くの人と愛を交わし、循環させていけるのです。全ての人が愛の源泉であるのを感じ、その豊かな愛が広がっていくことに感動しました。「多くの人に、この感動を伝えたい」とも思いました。そして「もっと自分を愛する時間を作りなさい」というメッセージを受け取りました。

自分を愛する時間・・・。きっと、のんびりお風呂につかったり、ゆっくりと食事をしたり、ギターを弾いたり、読書したり、好きな事をして過ごす時間なのでしょう。私はいつも、自分のことは後回しにしてしまいますので、そんな時間を過ごすことを忘れていました。ヒーリングを終えてスッキリしたので、ゆっくりとお風呂に入ってみました。この時にはもう、喘息の発作も、不安も、ありませんでした。

面白いですね。ほんの1時間くらい前までは喘息と不安のせいか、体は硬直しまくりで、心の視野も狭くなっていたのに、愛を感じただけで、体はリラックスして緊張がとけ、心には穏やかな優しさが広がっています。短時間でこんなにも人は変わるのか、と驚くほどです。

このヒーリング以来、喘息の発作は出ていません。満たされる愛を求めて彷徨い続けるトラベラーの旅も、ようやく終わったようです。これからは、自分が愛であることを忘れたりしないように、たっぷりと自分を愛する時間を過ごしていきたいです。

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電車の中で。目の前の席に座っていた人の、左手人差し指から血がダラダラ出ていた。バンソウコウで止めてはいるんだけど、出血が止まらないのか、血が溢れ出ていた。

慌ててカバンの中にあるティッシュを探したけれど、その人もポケットからティッシュを出したので、私は差し出さなかった。

ティッシュで指を抑えている姿を見て「うー、1駅分でも手を当て、レイキさせてくれれば」と思った。でも見ず知らずの他人にそんな事言ったら、完璧に怪しい人だと思われて、手も当てさせてくれないよなぁ・・・。

ジレンマみたいのを感じちゃった。何かしてあげたいのに、何もできない自分。

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